博物館は自然の中にあって、そよそよと流れる風が木々を揺らし空気が澄んでいる。私はこの空気感がとても好き。博物館はよく一人で来るので、気を抜くとこれがデートだということを忘れてしまいそうになる。「常設展も好きだけど今は特別展がやってて、見に来たかったの」チケット売場で”常設展+特別展”というお得なセット券を買って、私はウキウキだ。そんな私を見て、大野くんは静かに笑っていた。「姫乃さん、面白すぎる」「えっ、また何か間違えた?」「間違ってないですよ。正解はないけど、行きたいところ、水族館とか遊園地とか言うかと思ったのに、デートで博物館って。渋いよね」「はっ!」確かに、言われるとそうなのかもという気になってくる。 やばい、間違えた。私ったら自分の趣味全開でどうするの。これはデートだったのに。いや、でもデートってどんな……?「デートしたことないからわからなくて……」ゴニョゴニョと語尾が小さくなる。もっとデートのこと調べておけばよかった。 もっと妄想ふくらませておけばよかった。せっかく大野くんがデートの練習を提案してくれたのに。「ちょっと待って。嘘でしょ?」「何が?」「姫乃さん、デートしたことないの?」「そうだよ。だから練習したいんだってば。もう、これ以上辱しめないでっ」目を丸くして驚く大野くんの背を押して、無理やり特別展の入口まで連れていった。これ以上この話を深掘りしてほしくない。世間知らずだって幻滅されたら嫌だもの。「はいはい、わかったわかった。じゃあ姫乃さん、デートなんだから俺のことは名前で呼んでよ」「ええっ!」「彼氏のこと名字で呼ぶ? 呼ばないよね?」……そうなの? だったら名前で呼ぶのが正解、よね?恥ずかしい。無性に恥ずかしい。 けど、勇気を出して口にした。「……樹くん」「はい、よくできました。じゃあ行きましょう」慣れなくて困惑する私に対して、樹くんは涼しい顔をしている。 すでに経験の差が現れているようだ。
大野くんとのデートの日。 デートという言葉に踊らされているのだろうか、なかなか寝つけなかったし朝も早くに目が覚めてしまった。デートってどんな服を着ていけばいいのだろう。デートなんてしたことがないからわからない。散々洋服を出し入れして考えたあげく、結局出勤時と変わらない服になってしまった。理想だとかやってみたいことはたくさんあるけど、これは練習なんだから、ダメなところは大野くんに指摘してもらえばいいのだ。そうだ、そういうことなんだよ。というわけで、私がデートに選んだ場所は博物館だ。 デートっぽく待ち合わせをしたいと思って博物館前集合って決めたのに、マンションを出たところでさっそく大野くんに出会ってしまった。「あ……おはよう」「おはようございます。一緒に行きますか」「そうだね。そうしよう」意気込んでいたのに拍子抜けしてしまって、何だかくすぐったくて笑えてしまう。待ち合わせのときめきはなくなってしまったけれど、これはこれで何かいいな。……って、私ったらものすごく楽しみにしてるみたいじゃないか。大野くんは私の練習に付き合ってくれてるだけなのに。平常心、平常心。 落ち着け私。落ち着け、落ち着け。電車は意外と混んでいて、座る場所がない。大野くんは私を端っこに寄せて、吊革を握る。会社で見る大野くんはスーツを着ているから、私服がなんだか新鮮。カジュアルなシャツにパンツ、スニーカー。背が高いから私よりも目線が上。大野くんってイケメンだな……なんて眺めていたら、急に電車がガタっと揺れて勢いのまま大野くんの胸にダイブした。「うぐっ!」思い切り鼻をぶつけた。大野くんが「大丈夫?」と覗き込んでくる。 うわー、めちゃくちゃ恥ずかしい。 大丈夫大丈夫と鼻を擦っていると、くすりと笑われてしまった。「ぼんやりさん」「だって電車が急に揺れるんだもの」「はいはい、つかまっててください」そう言われたので大野くんの袖を掴んだ。 大野くんは一瞬目を見開いて「そこかー」と呟く。 何か間違えたらしい。慌てて手を離そうとしたけれど、「それでいいです」と微笑まれたので、そのまま掴んだ。うーん、デートって、難しい。
「今まで人を好きになったことないんですか?」「うーん……」これまた真剣に考え始める。こちらが頭を悩ませそうなくらいに頭を悩ませている。そもそも姫乃さんは人気があるのだから、彼氏募集中ですなんて言った日にはあちらこちらから声がかかるに決まっている。それはもう、いい男から悪い男まで、姫乃さんを自分のものにしたいやつがわんさかと……。そこまで考えて、それは嫌だなと思った。姫乃さんがぼんやりしている人だということを知っているのは俺だけでいい。姫乃さんが綺麗だけじゃなくて可愛いということも、俺だけが知っていればいい。誰にも知られたくない、独占欲というやつがわいた。だったらどうしたらいい?姫乃さんを俺の手元に置いておく方法。「しょうがないな、じゃあ俺が彼氏になってあげますよ」「ええっ!」「いろいろ練習したいでしょ?」「練習?」「恋人ができたときの練習ですよ」こうすれば姫乃さんを俺のものにできる。姫乃さんは押しに弱いから、絶対頷くと思った。姫乃さんが他の男のものになるのが考えられなくて、そう提案した。けれどそれは俺が姫乃さんを好きだともとれるわけで……。姫乃さんを好きかどうか。考えたこともなかったけど、好きなのかもしれないなと思う。やばいな、俺の考えもぼんやりしている。姫乃さんに流されているのかもしれない。そんな俺の気持ちにはまったく気づいていない様子の姫乃さんは百面相のように表情を変えたあと、「よろしくおねがいします」とカタコトに頷いた。調子に乗った俺はデートをしようと提案した。これまた顔を真っ赤にして動揺しているのだが、いったい何を想像しているのだろう。行きたいところがあるとやたらテンションが高くなった姫乃さんは、いつもとはまた違った、子供のように楽しそうな顔をして笑った。微笑ましすぎてこちらもつられて笑った。なんだかとても心が浮ついた。
だいたい、なぜまわりは姫乃さんのぼんやりさに気が付かないのだろう。 完璧だとか高嶺の花という言葉が先行して、そういう固定した目で見ているからだろうか。姫乃さんは彼氏の話になると、とたんに動揺するというのに。「ねえ、大手企業のエリート彼氏がいるって?」「ぐっ!」「同棲を始めて結婚も秒読みなんだ?」「げっほっ!」ゴホゴホとむせ返る姫乃さんに水を手渡す。 ほら、この動揺の仕方。こんなにわかりやすいというのに、なぜ気づかない? けれど逆に言えば俺だけが知っている姫乃さんということにもなって、なぜか優越感がわいた。「そうだよ、彼氏いないもの」「別にいいんじゃないですか? 何か問題でも?」「だって私もういい年だし、いい加減彼氏作らないと行き遅れちゃうよ」口調から必死さが伝わってくる。行き遅れるだなんて、姫乃さんなんて引く手あまただろうに、何を言っているのだろう。もしかして理想が高すぎるのだろうか。それとも以前は本当に大手企業のエリート彼氏がいて同棲までしていたとか?「じゃあ作ればいいじゃん」姫乃さんならすぐできるでしょう、という意味で言ったのだけど。「どうやって? 彼氏ってどうやったらできるの?」真剣な顔で訊き返されて、逆に言葉に詰まった。 必死さが更に強まった感じだ。「姫乃さんマジで言ってます? 今まで誰かと付き合ったことないんですか?」素朴な疑問だったのに、姫乃さんは一瞬で顔が真っ赤に色づいた。 マジか。嘘だろう?
昨日は姫乃さんの部屋にお邪魔したので、今日は俺の部屋に誘った。 姫乃さんは何の疑いもなくヒョコヒョコ着いてくる。大丈夫か、男の家だぞ? 警戒も何もあったもんじゃないし、下心やあざとさなんて微塵も感じられない。ダメだ、姫乃さんは天然なのかもしれない。まあ、俺とて襲う気はないけど。「何かお手伝いを……」そういう姫乃さんをソファに押し込めた。昨日は作ってもらったから、今日は俺が作ろうと決めていた。それに隣に来られると無駄に緊張するからやめてほしい。大人しく座っていてくれたらいい。簡単なものしか作れないけど、失敗のないチャーハンと餃子にした。そういえば誰かに手料理を振舞うのは初めてかもしれない。あ、なぎさにはよく作ってやるけど。あれは身内だから別だ。姫乃さんはソファで人形のように綺麗に座っていた。 出来上がったチャーハンと餃子の皿をテーブルに並べると、とたんに嬉しそうな顔をする。「すごい、大野くん料理男子だね」「今時の男は作れて当たり前でしょ?」「そうなの? しっかりしてると思う」うんうんと頷きながらチャーハンを食べている。頬っぺた落ちちゃいそうとか言いながら頬を押さえる仕草は、綺麗と表現するのは違う。なんというか、とても可愛らしい、みたいな。 ほらまた、綺麗から可愛いに変わった。「姫乃さんがぼんやりしすぎ」「私、ぼんやりしてる?」きょとんとするので、俺は大きく頷く。 これがぼんやりしてないで、何だって言うんだ。すると姫乃さんは目をキラキラさせながらくしゃりと笑った。「うわー。初めて言われた。なんか嬉しい」なぜそこで喜ぶのか、意味不明。「変なの」「だって、まわりのみんなは私を完璧とか高嶺の花とか言うの。全然そんなんじゃないのに、どんどん話が大きくなっていく。私がちゃんと否定できたらいいんだけど、なんかタイミング逃しちゃうっていうか、流されるというか」確かに見た目は完璧で高嶺の花だと思う。俺も見ているだけならそう思っていたかもしれない。だけど姫乃さんを知れば知るほど、いい意味で綻びというのかボロが出るというのか、とにかくこの人はふわっとしていて隙だらけだ。「そういうところがぼんやりしてるよね」言えば、またくしゃりと笑った。 どうやら嬉しがっているようだ。
自分でもなぜそんな約束を取り付けたのか、理解しがたい。 姫乃さんと、毎日一緒に夕食を食べるという約束。ただなんとなく、姫乃さんを誰かにとられたくない独占欲が働いて……。って、まるでそれでは俺が姫乃さんを好きみたいじゃないか。だけど姫乃さんが会社では見せない表情をくるくる見せるたび、ドキリと胸が高鳴る。この人は本当はどんな人なのか、知りたくなる。もっと暴きたくなる。仕事中の姫乃さんはやはりいつも通りの姫乃さんで、姿勢よく真面目に業務に取り組んでいた。見た目、優等生タイプ。まわりの男性陣が姫乃さんの近くを通るたびにチラ見していく。「今日も綺麗だな」「俺たちの癒し」そんなことを呟きながら。 それには俺も同意する。姫乃さんは綺麗なのだ。柔らかい雰囲気が、見てるだけで癒されるし。定時を過ぎても姫乃さんは凛として仕事をしている。姿勢が崩れないのはすごいと思うけど、あれは世界に入って戻ってこないやつじゃないか?「姫乃さん、何時までやります?」「え? あっ! もう定時越えてる?!」声をかければ案の定、時計を見て驚く。完全に世界に入っていたな。 姫乃ワールド面白い。夕飯一緒に食べようと言ったら、頷きながら頬を赤らめた。 そんな姿が少しいじらしく感じられて、嬉しくなった。